生きてきた年月だけ人には過去がある。

 懐かしく、また誇らしく思う過去もあれば、忌まわしい記憶として消してしまいたいと、無かったことにしたい過去もある。

 御剣怜侍にとってのそれは後者であり、誰にも知られたくない――――…否、誰に知られても構わない。

 ただ、最愛の人にだけは知られたくないものだった。

 思い出すだけでも吐き気がする、忌まわしい記憶―――――――いつまで経っても脳裏のどこかに纏わり付く、忘れたくても忘れられない現実の記憶だ。

  

 

 

 

 御剣は長い間、不眠症に悩まされていた。

 原因は夜ごとに魘される悪夢である。

 眠る度に、目を閉じる度に幼い頃遭遇した事件の夢が御剣を責め苛む。

 まるで真綿で首を絞められるかのような息苦しさ、男の怒号と、言い争う父親の声。泣き叫ぶ自分の声。

 そして鳴り響く銃声と父の断末魔の叫びに目が覚めてしまい、満足に深い眠りを取れたことは殆ど無い。

 その所為で貧血を起こし倒れることは最早日常茶飯事であった。

 成長期にそんな事があれば当然虚弱な体つきになるのは無理も無く、それを解決すべくカウンセリングに通っても、医者にかかっても結果は実らず、十四歳頃まではいつも御剣の目の下にはくっきりと黒い隈が浮かんでいた。

 「眠れないなら、眠らせてあげようか?」

 実に人の良さそうな笑顔でそう言ったのは、当時生活していた狩魔邸に出入りしていた捜査官だ。

 捜査官と言ってもかなり地位は上らしく、師の狩魔とも対等に渡り合いそれどころか軽口を叩けるという、なかなか剛の者というのが御剣の認識だった。

 そんな彼が珍しく酔っ払い、宿泊を希望したというのでゲストルームに案内した時、そう言われたのだ。

 「……仰ってる意味が分かりません」

 「キミ、いくつ?」

 「十四ですが」

 「そっか、まだ小さいんだし分からないよね。どうせ豪ちゃんもそーいうこと教えないだろうし」

 いきなり年を聞かれ答えれば、次の瞬間には自己完結している彼の様子に不審も露わにする御剣だったが、次の瞬間恐ろしいまでの力で腕を引かれ、華の香りがするベッドの上に組み敷かれていた。

 「何を」

 「ふふ、これから分かるよ」

 意味も分からず見上げれば、目に映るのはまるで三日月のように丸く弧を描く唇。

 御剣はそれに本能的に恐怖を煽られ、反射的に慌てて逃げを打つも捉えられ犯された。

 ろくろく性的な知識も無く、今、自分の受けている仕打ちがどんなものか理解は出来なかったが、ろくでもないことであることだけは理解できた。

 まだ子供の域を抜けきれない未熟な躯の何が良かったのか知らないが散々嬲られ、泣き叫ぶような苦痛と目も眩むような快感と、深い眠りを幸福に思った事を今でも忘れられない。

 

 それから彼は頻繁に狩魔邸に泊まるようになり、その度に御剣は誘われるままにベッドを共にするようになった。

 異常だとは分かっていたが引き替えに得られる泥の底に沈むような深い眠りの誘惑に逆らえなかったのだ。

 

 その頃から貧血は解消され、身体も頑強になった。元々育つ時期である。背が伸び手足が長くなり、大人の身体らしくなった。

 ただ肉はつかず細いままで、暇さえあれば書庫に籠もって法律書を読む生活だったため肌は白いまま。

 影のある美貌は冴え冴えと、そして男を知ったために一層凄艶になった。

 「うん、将来が楽しみだねえ」

 男はそう言って御剣の頬を撫でる。

 それにうっとりと微笑み返しその背に爪を立てる御剣をここまでに美しいものにしたのは、満ち足りた眠りと、未だなお渦巻く犯罪者への憎悪だ。

 時と共に薄れることなく日に日にそれは膨れあがり閉じ込められ、胸の中に荒れ狂い、それらは秀麗な顔立ちの下にある美貌を際立たせ、彼は負を食らって、美しく成長を遂げた。

 

 

 

 それから経ること四年後の事。

 狩魔の元で検事になるべく研鑽を積んでいた御剣は司法試験に見事合格を果たした。十八歳のことだ。

 司法修習の合間を縫って師の付き人として色々な場所に出入りするうちに、自分を抱くあの男が警察局長であると知った。

 あの狩魔と対等に言葉を交わすのだ、それなりの立場であることは察しが付いたがこれほどまでとは思わなかった。

 そしてもう一つ気がついたことがある。

 自分の顔はどうもそう言った性癖の人間の興を惹くらしく、誘われるようになった。もちろん性的な意味でだ。

 どうやら地位の高い人間は往々にして人には言えない趣味を持つ人間が多いようで、警察や検事局に出向く度にねっとりと纏わり付くような視線を投げかけられることは珍しくないことだった。

 この頃になると御剣は、自分には女性は愛せないだろうと薄々悟るようになった。

 やはり性の目覚めもまだ迎えぬ時から今に至るまで骨の髄まで抱かれる事を叩き込まれたからだろう。

 この年になると抱かれる事を当然と受け入れている段階で己が異常であることを理解していたが、今更どうすることも出来ず、また正すことも面倒で、御剣は溜息一つで自分の性癖を受け入れることにした。

 しかしどうしたものか。

 誘ってくるのは一様に上級職の人間ばかりであり、無碍に断っては将来に関わる。

 しかし易々と脚を開くようでは自分の価値が下がってしまう。

 齢十八であるというのにそれには似合わぬ計算高さで己の将来と身体を天秤に掛け、さて一体どうしたものかと御剣が考えあぐねていると男――――――巌徒は相変わらず正体の見えない笑みを浮かべると耳元に囁いた。自分が相手を見繕ってやろうとか。

 「ほら、僕これでも偉い人だからね。キミのマイナスになるようなことは絶対にしないよ?」 

 別段御剣と巌徒の間に愛情めいたものは無い。

 無論恋人という間柄でもない。

 ただ、身体の関係があるだけだ。

 散々今まで寝てきたというのにこれっぽっちも芽生えなかった情に、御剣はやはりどこか自分はおかしいのかもしれないと、ぼんやりと思った。

 「欲しいんでしょ、絶対的な力が。キミの先生に聞いたけど、大変だったみたいだねぇ、今まで。みんなソレをくれる人たちばかりだよ」

 「本当に?」

 「疑り深いなぁ。そういうところはさすが狩魔流って感じだけど、豪ちゃんも言うでしょ。使えるモノは何でも使え。って。それに――――眠りたいでしょ?」

 人の心の深淵まで見透かすような目で、黒い革手袋に包まれた巌徒の指先がスーツの胸元を辿る。

 まるでそれは愛撫するような手つきであり、ぞわりと躯の奥からこみあげる熱に御剣は頷いた。

 もう十四歳の時とは違い、今、自分が何をしようとしているか分かっている。

 だからこそ目を閉じ、身も心も暗闇に委ねた。

 

 

 それから、言われるがままに男と寝るようになった。 

 ふ、と頭の片隅で娼婦のようだなと考えることもあったが、望むことを成し遂げるための力が欲しかったから躊躇うことは無かった。

 恐らく狩魔も弟子である御剣の行為を知っていただろう。

 否、耳に入らないはずが無い。弟子が男娼紛いのことをしているのだ、誰かが注進するに決まっている。

 しかし咎め立てされたことは一度たりとて無かった。

 それにもうその頃には人肌無しの眠りなど有り得ないようになっていたから止めようとも思わなかった。

 そして法廷術を狩魔によって仕込まれた御剣は史上最年少の検事に就任し、思う存分手に入れた力を振るい、巌徒の後ろ盾の元数々の犯罪者を有罪に追い込んだ。

 被告人を、すべて有罪にする。それが己のルールと定めた。

 それを正しい道だと信じて疑わなかった。

 全ての犯罪者を有罪にすること事があの悪夢から、己が犯した罪の記憶から逃れる唯一の方法だと思って。